未知の数字

登場人物

  • 語り(性別どちらでも可)
  • ヒッパソス(男性)
  • ピタゴラス(男性)
  • 信者の男

所要時間(300文字あたり1分として計算)

約8分(約2400文字)

台本についての補足説明(ディレクション等)

特にありません。自由に演じてください。

本文

紀元前500年頃 クロトン

現代で言うところのイタリア南部にあるクロトーネと呼ばれている場所。

夜。
叫び声。
教団の信者たちが寝起きしている区画の西側に、松明を持った市民が、なだれ込んできた。
信者たちは、逃げ出そうとするが、捕まって殴られ血だらけになって倒れる者多数。
松明が次々と建物に投げ込まれる。
教団の敷地の複数個所で火の手が上がりはじめた。
教団の外郭が襲われはじめているとき、敷地の中央にある建物の奥まった部屋で、灯りもつけず、老人が独りつぶやいていた。

「……わからない……はかれない」

信者の男二人が慌てて部屋に入ってきた。

「教祖様!! ここにいらしたのですか! 暴徒が迫っています! 早くッ!!」

信者たちが、老人の手をつかんでひっぱるが、老人は、魂が抜けたように、つぶやきながら座ったままだった。

「火に焼かれる……」

暴動が起こる1年前 イオニア海 

老人は、信者たちと船でタレントゥム湾 を経てイオニア海の沖に向かっていた。

岸が見えなくなったあたりで船が止められ、縛り上げられ足に鉄球をつけられた男が甲板に引きずり出されてきた。

老人は、座り込んでいる男に腰をかがめて言った。

「ヒッパソス……なぜ、お前は言う事を聞かなかったのだ。
あれほど警告したではないか。
『それ』を研究してはならぬと。
こんなことはしたくなかったのだが……
もはや、お前は、何を言っても『それ』の研究をやめないだろう……」

ヒッパソスと呼ばれた男は、顔を上げて言った。

「教祖様………
私も最初『それ』を発見したとき、自分の考えを疑いました。
しかし『それ』は存在する。
直角三角形の斜辺の二乗は、他の辺の二乗の和と等しい。
本当に美しい法則です。
私はこれに教祖様の名前をいただき
『ピタゴラスの定理』と名付けようとしました。

しかし……これをもとに考えると
一辺の長さが1の正方形の対角線の長さは、二乗すると、2になる数字です。
これは、およそ、1.414213……ですが、
この対角線の長さは、どうしても少数でも、分数でも表すことができない。
数字では表せない数字……私も、こんな数字が存在するとは思いもよりませんでした。

しかし、厳然と存在するのです!!

すべては……万物は……均衡と調和の上に……数と計算によって美しい法則でもって説明できる。
それで、世界は成り立っている……

それを探求するのがピタゴラス教団の使命のはず……

『数字で表せない数字』はピタゴラス教団にとっては未知の存在です。
でも、それを明らかにするのが、私たちの使命では!?

『ある』ものを『ない』と言ってしまったら、それは探究者ではなく、低俗な政治屋です!

未知の数字が『ある』のなら、それを研究しその真実を……うッ」

教祖は、杖で打ち据え男を黙らせると叫んだ。

「傲慢にも、わしに説教し崇高なる教義を変えろと申すか!! 何様のつもりだ! 
この愚か者を早く海へ!」

信者たちが、男をつかむと、男は立ち上がって、信者たちを振り払い、にらみつけた。

「えーいッ! 私に触るな!! 
お前たちに、あと押しされずとも、自ら海に入ってやるわッ!!

こんな堕落した集団など、こちらから願い下げだッ!!!
ピタゴラス!! 私は、あなたに失望した!
あなたの純粋な教義に感動して、この教団に入り力を尽くしたのに!

教団に邪心を抱いたわけではない!
お前に教わったやり方で、世界を探究した結果、新たな真理を発見しただけなのに!

お前たちが理解するのが無理だった『未知の数字』は『無理数』と名付けてやる!!

新しい真理をむざむざと水に沈めるような、不誠実な、お前と教団は……遠からず火に焼かれるだろう!

お前が焼き殺される姿を見られないのが、つくづく残念だ!!

何度生まれ変わっても、お前たちとすれ違うことすら疎ましい!

ぅうおおぉぉッ!……」

男は、足につけられた鉄球を自ら手に持って、海に飛び込む。

老人は、表情を変えず、ヒッパソスが沈んだ水面に浮かんでくる泡を見つめていた。

そして、振り向いた。
無表情の信者たち。

彼が振り向くまで、信者たちは、表情を曇らせ顔を見合わせていたことに、教祖は気がつかなかった。

紀元前500年頃、哲学者であり数学者であったピタゴラスを中心とした秘密結社、ピタゴラス教団というものが存在した。
ピタゴラスは、和音の構成から惑星の軌道まで、多くの現象に数の裏付けがあることを発見し、数字を特別なものと考え、万物は数の調和と均衡で成り立っているという理念を持つようになる。
教団の信徒たちは、ピタゴラスの指導のもと財産を共有し、日々、哲学や数学の研究を行っていた。

しかし、ピタゴラスの弟子のひとり、ヒッパソスは、√2のように少数でも分数でも表せない新しい数字、今日では「無理数」と名付けられている数字の存在を発見してしまう。

それは、世界のすべてを明快な数字と計算で説明できると考えたピタゴラスの世界観を覆すものであった。

ヒッパソスは自分の発見した「未知の数字」について、探求を禁じられたのにもかかわらず研究を続けようとした。
その結果、彼は教団の教えに背いた者として、海の中に落とされたと伝わっている。

しかし、ピタゴラス教団の繁栄は長く続かなかった。
教団を支援していた地元の有力者が失脚し、教団は混乱。
その混乱に乗じて、教団に恨みを持っていた者が市民を扇動。
暴徒と化した市民の手によって、教団は焼き討ちに遭い、ピタゴラスも殺害された。

皮肉なことに、秘密主義のピタゴラス教団が瓦解したことによって、生き残ったピタゴラスの弟子たちが、各地に散らばり、ピタゴラスとその教団の事績を伝え残すことになった。

直角三角形の三辺の長さの性質を表した『三平方の定理』通称『ピタゴラスの定理』で彼の名前は有名だが、この定理にピタゴラスがどう関わっていたのかは、実際の所、はっきりしていない。