悪へのステップ

登場人物

  • フランチェスカ・ロハス……シングルマザー。この手記の書き手。
  • カルバロ(6歳)……フランチェスカの息子
  • フェリザ(4歳)……フランチェスカの娘
  • ベラスケス……フランチェスカの近隣の住民
  • ミゲル……フランチェスカの交際相手
  • ロドリゲス……ネコチェア警察の警察官
  • アルバレス……ブエノスアイレス中央警察の警察官

所要時間(300文字あたり1分として計算)

約20分(約5600文字)

台本についての補足説明(ディレクション等)

特にありません。自由に演じてください。

本文

1892年10月26日

ブエノスアイレス中央警察

リカルド・アルバレス警部様

私は、神さまを嘲笑うつもりでいました。

寝ている子どもたちの姿を見るとなんとも言えない気持ちとともにため息がでます。
産んだときのことを思い出しもしました。
でも私はここにも書けないような屈辱的なことを続けながら生きている。
それは心を削られ焼かれるような思いを味わわせ、私をギリギリまで追い込んでくる。
一刻も早く、そんな状態から抜け出したかった。幼い子どもたちを抱えながら貧しい暮らしを続けることに、本当にもううんざりして疲れきっていたのです。

刑事さんはコインの数を「1ペソ、2ペソ……」と数えながら買い物をしたことありますか?
眠ろうと思ったら、子どもたちが「おなかすいた!」と言って、眠れない夜を過ごしたことは?
なんとかようやくなだめてなだめて、子どもたちが落ち着いてくれても、体も心も疲れきっているのにも関わらず、まるで眠れない……
頭の中が煮えたぎっていると感じる、そんなご経験をしたことは?

……ないでしょう?

それとも、あなたのことだから、何もかも、すべてをお見通しなのでしょうか。

6月29日。

一か月くらい前に、遠くの町まで行って買ってきた厚みのあるナイフは、女の細腕には酷く重く感じました。
でもそんなこと…と、あまりいろいろ考えていても気持ちが鈍るだけと思い、私は裸になり、ナイフを握って、寝室に入り寝ていた子どもたち。カルバロを先に、そして次にフェリザを……

死んでからの裁きではなく、生きているうちに幸せになりたい、この渇きから解放されたいという思いに吸い込まれていました。

刺された二人ともが目を開けました。
どちらも同じ、驚いた目で「なんで?」とでも聞きたかったのか、私を見ていました。その顔は今も頭に焼き付いています。
幸か不幸か、二人とも声を上げませんでした。
そうでしょうね。
相手は自分の母親だったんですもの。
私は、ためらっていては余計苦しませるだけと思い切り力を込めた……

私は衛生ステーションで働いていたこともありましたから、人体の急所はそれなりに心得ている。
苦しみは少しでも短くしたかった。

私は寝室を出ると、血の足跡を残していないことを確認し、バスルームで体についた子どもたちの返り血を洗い、もう一つの大仕事をする気力を振り絞っていました。
<頸動脈に達しない範囲で自身も重症を負うこと>
これが、私の企みの一番重要な要素でした。

まだ子どもたちの血がついているナイフで、頸動脈を避けながら首の左側に深くナイフを入れたのですが、あまりの痛さに目がくらみ、大量の血も噴き出したものですから、しくじったかと慌て、ショックで気を失いそうになりながらもなんとか気力を出し、私は体にバスタオルを巻き外に出ました。
道路に出たとき、最初に出会ったのは酔っ払いで、わけのわからないふざけたことを言っている男でしたが「助けて……」というと、私が血だらけなのにようやく気付いた様子で、顔色を変えて、どこかへ走り出して行きました。
覚えているのはそこまでで、次に目が覚めた時に私の目に映ったのは病院の白い天井でした。

医師も看護師も、とても親切でしたが、私が子どもたちのことを尋ねると、目をそらし、彼らは何も言わない。
子どもたちは生き返らなかったのだと、確信しました。

最初に私の所に来たあのロドリゲスという警官も、私のことをとても気の毒がってくれました。
「大変申し上げにくいのですが……」
と残念がった顔で子どもたちが殺されたことから話しはじめ、私が襲われた状況を質問してきました。

ですから私は「バスルームでシャワーを浴びている時に、子どもたちのけたたましい声が聞こえてきて、慌ててバスタオルを巻いて、バスルームから出ようとした所で、背の高い男が入ってきて首を切られた。男は、ナイフを投げつけると、にやにやしながら出て行った」と話しました。

「近所のベラスケスという男によく似ていた」という話もつけ加えました。
ベラスケスは酒に酔っては、しつこく私に言いよってきて家に入り込んだりしていましたし
「お前みたいな酔っ払いと付き合う気はない」と私がきっぱり断った時なんか「俺の思い通りにならなければ、殺してやる」と言っていたので、この男なら犯人としてふさわしいと思ったのです。

ロドリゲス刑事はうなづきながらメモを取っていました。
「子どもを殺すなんて、絶対に許せない! 犯人は必ずつかまえてみせます!」と、息巻いていました。
それはそれはこっけいに見えてしまいましたが、できる限り弱々しい声を作って
「はい、絶対に犯人を捕まえてください……」と伝えたのを覚えています。

これで、私はミゲルと一緒になれると思いました。

しかし、私は知りませんでした。

私を脅迫したことを認めたベラスケスに、事件のあった時刻、数人の友人たちと一緒にバカ騒ぎをしていたというアリバイがあり容疑者から外されたこと。

そして
「子どもや女性を平気で襲う殺人鬼がどこかにいるのに何の手掛かりも見つからないなど、どんな方法を使ってでも、こいつを捕まえなければならない!」と
ロドリゲス刑事は熱い気持ちで、地元警察の面子にこだわらず、もっと優秀だと思える警察官に相談する決意をしていたこと。

ロドリゲスのことを私は間抜けだと思っていたのですが、違っていたようです。
「自分とは違う知識や経験のある人間に相談する」
という知恵を持っていたのですから。

ロドリゲスは、嫌がる上司を押し切り、ブエノスアイレス中央警察に支援を要請した。

そして、あなたを……アルバレス警部……
よりにもよって、あなたを……この事件に呼びこんできました。

あなたは、改めて関係者全員に対して丹念に聞き込みを行った。
そして、私がミゲル・ピアソラと付き合っていたこと、
彼が「君と結婚はしたいが、子どもたちがね……」と言っていたことも突き止め、私の自宅も詳しく調べた。

寝室のドアには血の跡があり、それが指の跡であることに気づいたあなたは「指紋」というものをそこから採取した。

私はまた知らなかった。

「指紋」というものの研究が世界中で進んでいるのだそうですね。
誰もが持っている「指紋」というのはみんなそれぞれ違うそうですね。
一人一人、みんな違うからこそ「指紋」が重要な手がかりになるかもしれない。
そう考えたあなたは「指紋」について勉強し、専門家とも、よく話し合っていた。
そして、世界で初めて「指紋」を犯罪捜査の証拠として使おうとしていて、それを実行に移した。

私が文字通り、命がけで考え抜いた計画に対して。

「フランチェスカさん……
あなたは、バスルームで襲われてから助けを呼んだと証言した。
あなたの出血の跡は、実際バスルームから玄関へ、そして、道路へと続いていて、子どもたちが寝ていた寝室に続いてはいなかったが、その一方で、寝室のドアには血のついた指の跡があった。
この指の跡は、最近研究が進んできた「指紋」と呼ばれているものなのですが、手の汗や脂で、いろんな所に残るものなんですよ。……もちろん、血でもね。
寝室のドアに残されていたのは、犯人の指紋に違いありません。
東洋では、随分古くから、署名だけでなく、親指に血をつけ紙に押し当てて、堅い約束を交わすときの契約書に使ったりしていた。
この「指紋」の研究にさまざまな人が取り組んでいったきっかけにはそれも含まれています。
あぁ、今のはいらない話でしたね。申し訳ない。
…話を戻しますが、あなたが名指しした、ベラスケスも、あなたが交際していた、ミゲル・ピアソラも、もちろん、あなたの指紋も……
この事件の関係者全員の指紋を取って比較しました。

ロドリゲス刑事は、
『ロハスさんの指紋を取る必要があるんですか? 
実の母親ですよ? 
それに、一歩間違えば、死ぬかもしれない重症を負ったのに?』
と、凄い剣幕でしたが、可能性があることは、全部調べるのが、私のやり方というか性分なものでして……」

私の指紋は病院で使ったコップから、取ったらしい。
あなたは、淡々と話していましたが、大変だったでしょうね。でもどうやって、コップからなんて指紋を写し取れたのでしょう。
血の跡なら見えるでしょうけど、コップに残った指の跡なんて、あまり見えるものでもない。何か薬品でも使うのかしら。
それでも、形が潰れないように綺麗に写し取るなんて、高度な技術だということは、何も知らなかった私にも想像できました。

でも
それも今となっては、どうでもいいことでした。

とにかく、寝室の血の指紋と、私の使ったコップの指紋が一致したということからあなたは私に言わなければならなかった。

「犯人は、あなた以外、考えられないんです……」

私は神さまを嘲笑うつもりでいました。

だって、どんなに苦しくても神さまは助けてくれなかったのですから。
だから、私は神様に祈るのをやめ、悪魔に魂を売ったのです。

この犯罪が成功しても、成功しなくても、その結果に対して私は高笑いするつもりだった。

動かぬ証拠を突き付けられたとき、私は笑い出した。

でも、笑い続けられなくて……
悔しいことに、泣きだしてしまった。

悪魔に魂を売り、自分の子どもまで殺したのですから、どんなに酷いことでも、平気だと思っていたのに。

それなのに、私は、カルバロとフェリザの驚いた目と苦痛に歪んだ顔を思い出してしまった。

そして、子どもの時に、私を捨てた父、
それから、私と幼い子どもたちを捨てて行方不明になった子どもたちの父親のことを思い出し、私はどうしようもなく泣いた。

自分もまた、一番、かわいそうな存在を踏みつけにしていたことに今更気づくのです。
憎んでいた、父や あの男よりも、もっと酷いやり方をしたことを。

ずいぶん、長い間、私は泣いていたと思うのですが、アルバレス警部……
あなたは、私が泣き止むのを、静かに待っていてくれましたね。
そして、寂しそうな顔をして、私にハンカチを出した。

「……孤独と貧困で、おかしくなっていった人々を、私はたくさん見てきた。あなたの経歴も詳しく調べました。人が誰かを愛するためには、エネルギーがいる。
そして、孤独と貧困はゆっくりと、人を愚かにする。
あなたが最初から、悪人だったとは私には思えない。
根っからの悪人は、衛生ステーションで病人を診る仕事なんか選ばないと思っているからだ。
みんな、突然、悪人になるのではなく、大概みんな悪へのステップを少しずつ踏んでいってるんです。
そして、だんだん歩幅が大きくなっていって取り返しのつかない一歩を踏む。
あなたは、どこからか悪のステップを踏み出してしまったのだと思う。

寝室の指紋が一致して、
あなたが犯人だとはっきりわかったとき、
私は……どうして違う方法が、見つからなかったのだろうかと、悲しくなりました。

ロドリゲス刑事は、この事件が自分の手に負えないと感じたとき、別の知識や経験のある人間に相談した。
彼には違う方法について相談できる相手がいた。

きれいごとや絵空事かもしれないのだが、あなたにも【本音】で相談できる人がいればと……
本当の意味で、助けを求められる人に出会えてさえいればと……
違った方向へ踏み出すことができたかもしれないなどと考えてしまう

今回、一番かわいそうなのは……
その首の傷の痛みよりも何百倍もの痛みを与えられて殺された子どもたちだが
あなたも、とてもかわいそうな人だと、私は思った……
こんな事件を担当するたびに、そんなことを思い警察官をやめたくなる時すらあります……」

子どもを残忍に殺した身勝手な母親に対して、あなたは、そんなことを言う人でした。
罵られるよりも、そんなことを静かに言われるほうがたまりません。
私は、また泣き出してしまった。

神はなぜ、最後の最後に、このような人に出会わせたのでしょうか。

ほとんどのことは、取り調べで申し上げた通りですが、警察の調書以外にも、自分の気持ちを自分の手で残したかった。
計画的に自分の子どもを殺した者の気持ちなんて、誰も知りたがらないとは思います。
理解されるはずがないのに、誰かに、ほんの少しでもいいから多くの人に、自分の無念を理解してほしいのかもしれません。

極刑を受ける前の、私の最後のわがままです。

アルバレス警部宛てに、私はこの手紙を書いていますが、アルバレス以外の人が、読んでくれているかもしれません。
あるいは、読まれずに捨てられているかもしれない。それは、私にはまた知りようがないことです。

でも、アルバレスであれ、そのほかの誰であれ、目を通してくださったのなら、これを読んでくださっている、あなたに感謝します。

夢みたいな話だとは思いますが、私のような人間がこの世からすべていなくなることを心から祈ります。

                     
フランチェスカ・ロハス

1892年6月29日。アルゼンチン、ブエノスアイレス州ネコチェアで、フランチェスカ・ロハス26歳は、自分の幼い二人の子ども、6歳の息子、4歳の娘を殺害した。
彼女は自分で自分の喉を傷つけたあと「自宅で男に襲撃された」と言い近隣に助けを求めた。
当初、地元警察は彼女の嘘を見抜けず、捜査は難航したが、中央警察から派遣された警察官アルバレスは、まだ「指紋」が警察の捜査で、証拠として使われていなかった時代なのにもかかわらず「指紋」に関して日々勉強を続けていた警察官の一人だった。彼は、ロハスの自宅の寝室ドアに血の跡を見つけ、これが犯人の指紋だと断定。
アルバレスは細心の注意を払って指紋を採取した。
彼は丹念に捜査を進め、ロハスの交際相手が、子どもたちを嫌っていたことも突き止め、ロハス本人からも指紋を採取。
寝室のドアの指紋と比較し、これらが一致したことを証拠として、彼がロハスを尋問したところ、ロハスは犯行を自供した。

フランチェスカ・ロハスは、世界で最初に、指紋が証拠になり有罪となった人物である。

※この作品は史実をモチーフにしていますがフィクションです。

Special Thanks ! 人外薙魔様