登場人物
- 男(男):30代男性
- ナエ(女):20代女性
所要時間(300文字あたり1分として計算)
約6分0秒(1844文字)
台本についての補足説明(ディレクション等)
特にありません。自由に演じてください。
本文
<SE> 色々な動物の鳴き声
男M:舟の上は多種多様な動物たちでごった返していた。 この状態を例えるのならば敷地が小さい動物園とでもいえばいいのだろうか。しかし、動物園では柵の内側にいるべき動物たちが、ここでは完全に野放しだ。近頃の動物園ではふれあいコーナーなどといって動物たちを開放している一画もあっ たりするそうだが、飼育員の立ち合いがあるのだろうし、ふれあわせる動物もせいぜ いモルモットやウサギなんかの小動物だろう。少なくとも虎やライオンはふれあわせない。しかし、ここには虎もライオンもいるのだ。身の危険を感じること甚だしいが、どうやらやつらに俺を襲うつもりはないらしい。肉食獣たちは一切の敵意を感じさせない顔つきでじっとしている。いや、肉食獣たちだけではない。舟の上の動物たちはみんな、カラスもハトもゾウもキリンもウシもネズミもみんなじっとして動かない。まるでみんなで示し合わせているかのように。 どうして俺はこんなところにいるのか。たしか、ナエとラブホテル『ノア』の駐車場 へ車を停めて、それから…… 。思い出せない。彼女はどこへ行ったんだ?動物たちの合間をぬって彼女の姿を探す。どうやら今は昼間のようだが、厚い雲が空にかかっているために辺りは薄暗い。ナエとホテルにいったのは夜のことだったか ら、結構時間が経っているようだ。獣臭くて温かな肉の壁を押しのけながらしばらく探していると、舟のはじで小さくなっている女性を見つけた。ナエだ。 彼女は座りこみ、ひざの上に頭を乗せて恐怖に耐えているようだった。やさしく声をかけてやると、すぐさま抱きついてきた。やはり、ひとりで不安だったのだろう。軽く背中をさすってやる。
ナエ:ここは、どこなのでしょうか?
男:わからん。だが、ここから脱出するのは難しいだろうな
男N:俺は、荒れた海面を見つめる。
男:ほかに人がいる様子もないし、今はまだじっとしているしかないだろう
ナエ:やっぱり、天罰なのかな……
男N:俺には妻がいて、ナエは妻ではない。
男:そんなバカな話があるか
男N:妻との間に溝を感じ始めたのは最近のことではない。表立って喧嘩することはないが、どことなくお互いに距離をとるようになっていった。きっかけは妻が不妊症であ ることが発覚してからだった。それでも、俺は妻を愛していたし、子供をつくれ ないことに負い目を感じている妻を気遣い、できる限りのことはしてきたつもりだ。しかし、その献身はいつしか、妻にとっては違和感に、俺にとっては生活の重荷に変化していった。
<SE> 動物たちが騒ぐ音
男N:じっとしていた動物たちがいっせいに動き出した。恐怖を感じた俺たちは抱き合って身を強張らせたが、そんな必要はなかった。動物たちはみんな一斉に交尾を始めたのだった。よくみてみると動物たちはそれぞれ数を合わせたように一種ずつしかおらず、しかもオスとメスがきっちりと、つがいとなっているようだった。
男:これじゃあ、まるでノアの方舟だな
男N:冗談のつもりだったが、状況を鑑みるとそれは笑えないものだった。何よりも理屈ではない本能の部分で感じとっていた。「まるで」ノアの方舟、ではない。「事実」これは方舟なのだと。ナエを見ると、彼女は眼をうるませてこっちを見つめていた。
ナエ:あれ、おかしいな…。わたし、どうしちゃったんだろう
男N:ナエは俺の右手の手首をつかむと、強引に自らの胸元へと引き寄せてくる。
ナエ:私にさわって
男N:そのほか大勢の動物たちと同じように、俺はナエの上に重なって腰を振っている。もし、人間も一種の動物に過ぎないのだと言う無神論者がこの光景を見たなら、さぞかしご満悦だったろう。しかし、そんな彼も今や海の底だ。会社もアパートも妻も世界も全部、海の底だ。俺とナエだけが生き残ってしまった。俺は無尽蔵に溢れ出る情欲に突き動かされ、しかしそれとは裏腹に、無感動に腰を振り続ける。あまりに非現実的な現実を受け止められず、俺の意識は過去の虚空をさまよう。妻と出会った時のこと、初めて一緒に過ごした夜のこと、楽しかった新婚時代、 不妊症が発覚して病院で泣きじゃくる妻、 そして、とうとう出会うことのなかった想像上の赤ん坊…… 。徐々に薄くなっていく意識は悲しみのままに彷徨い、やがて消えていった