登場人物
- 伊藤(不問):サラリーマン
- 元上司(不問):伊藤が以前勤めていた会社の上司
所要時間(300文字あたり1分として計算)
約4分30秒(1327文字)
台本についての補足説明(ディレクション等)
「梅」というテーマで書いた作品です。本作はいわゆる私小説になります。実際にあって、そのとき私が感じたものを、ほぼそのまま落とし込みました。私にとっての「佐藤さん」は、まだ45歳でした。この小説を読む度に思い出せればいいなと思っています。
……などと書くと重くなってしまいそうですが、皆さんが感じたとおりに読んでいただいて大丈夫です。朗読向きだと思うので、男性でも女性でも、ご自由にどうぞ。
本文
伊藤はエレベーターを待つ間、その内心でじっと言葉を反芻し続けた。
防衛反応として思わずこぼれてしまった笑みは、もうそこにはない。むしろその不謹慎さと、間抜けな己の反応に、嫌気すら感じ始めていた。
『実は、訃報がありまして。佐藤さんがね、亡くなったんです。先週の、木曜日に』
「え……。……マジすか。はは……」
――もっと言うべき言葉があっただろう。もっと聞くべきことがあっただろう。
『脳出血、だったみたいで。金曜日、出社してこなくて。連絡がつかないので見に行ったら……そんなことに。職場は大混乱でしたが、今、少しだけ落ち着いたので、連絡して回っているんです。もう退職されたとはいえ、伊藤さんは佐藤さんと仲良かったでしょう? だから、ご連絡させていただきました』
「はい。……あの、わざわざありがとうございました。知ることができて良かったです」
……思わず顔をしかめても、記憶の中の伊藤は電話口でそれしか言わなかった。
恥だ。礼を欠いた行為だ。でも……今考えてみても、何を言うべきだったのかは分からなかった。
混乱している。
そうだ、おれは混乱している。
驚いているのか。悲しんでいるのか。悔やんでいるのか。
そのすべてかもしれないし、そのどれでもないのかもしれない、と伊藤は思った。
チン。
エレベーターがやってきて、ドアが開いた。
見知らぬ誰かの間に入ると、扉が閉まった。ゆっくりと、下降していく。
……そういえば退職する半年前、佐藤さんとライブイベントに行ったなあ。あの日は、野外ライブなのに雨が降って、お互いのカッパ姿が物珍しくて、思わず吹き出したっけ。
会社の恒例行事で、バーベキューも何回かやった。確か入社したてのとき、買い出しで、車の助手席に乗せてもらったことがあったっけ。あれは緊張した。佐藤さん、背は高いしガタイもいいから、ちょっと怖かったもんな。先輩だし。
そうだ、だからチーム会議にも独特の緊張感があったんだ。でも今思えば、あの人が厳しく、鋭く、嫌な顔されるのも厭わずに正論をぶつけてくれて、指摘してくれたから成り立っていたんだと思う。そこから学んだことは多いし、恐れながらも、きっとおれたちは頼りにしてたんだ、あの人のこと。
それに、それに……。
チン。
エレベーターが一階に着いた。ビルの出口へと向かいながら、伊藤はどこか他人事のように驚いていた。
――こんなにも、思い出があったなんて。
薄情かもしれないが、前の会社を辞めてから、佐藤のことなんて一度も思い出したことはなかった。新しい人間関係に順応し、忙しい日々を過ごすうち、それは過去のものとなった。最終出社日に交わした「また飲みに行きましょう」は、ついに社交辞令のまま終わった。
それでも。
自動ドアを抜けると凍えるようなビル風が押し寄せてきた。二月の夜。春の気配すら感じられないその冷たさに揺らされて、ひらり、ひらりと花びらが舞った。
背が高く、がっしりとした梅の木から、まだ萎れるには早すぎる花びらが散っていく。散らされていく。
伊藤は渦巻く思い出を胸に、駅へと向かった。
悲しい、と伊藤は思った。
悲しかった。ようやく悲しくなった。たとえそれがありふれたことでも、伊藤にとっては、はじめてのことだったのだから。
