登場人物
- 妻(女):20代後半のイメージ
- 夫(男):20代後半のイメージ
- 医者(男or女):ある程度自由に配役可能
所要時間(300文字あたり1分として計算)
約5分0秒(1400文字)
台本についての補足説明(ディレクション等)
特にありません。自由に演じてください。
本文
妻「私には、足がない。 妊娠中に交通事故に遭い、両方の足を失ってしまった。不幸中の幸いで、子供は無事に産まれたが、もはや自分の用も満足に足せない私にとって、子育ては難しい。だから、夫には子育ての多くを任せっきりだ。夫は、今日もベビーカーに乗せた子供と散歩へ出かけていった。午後4時を過ぎた頃、 夫が帰ってきた。日が沈むにはまだ早く、夏の盛りだというのに、夫の顔は血の気が引いて、青ざめていた。 唐突に、夫は、『子供を川へ落とした』と言った。ほとんど無意識だったらしい。川を見せてあげようと、欄干(らんかん)の外へ子供を掲げて、そのまま、……手を放してしまったという。
茫然自失から立ち直り、 欄干から身を乗り出したときには、もう遅く、子供はとうに流されてしまっていたらしい。夫は私に泣いて詫び、そのまま膝を折って玄関にうずくまった。私はしばらくの間、何も考えられなかった。……しばらく経ってから我に返り、夫をみると、 彼はまだ玄関にうずくまった状態のままだった。どのくらい時間が経ったのだろうか。私には、もう、 何もわからない。私は、うなだれた夫の頬に、 指先でそっと触れる。夫が泣き顔のしわくちゃになった顔をあげて私を見た。何か、すがるものを必死に求めていることが、 その眼差しから伝わってくる。私は、夫の涙を指の腹で優しく拭(ぬぐ)い、 肩に手をかけて引き寄せ、抱きしめた。私はおかしくなってしまったのだろうか? こんな状況だというのに、私は夫が愛しくてたまらない。……私は考えることをやめた。夫に覆い被さるようにして玄関に倒れこんだ。お互いの体をきつく抱きしめ合ったまま、 私たちは、そのまま、深い深い眠りに落ちた。
<場面転換>
翌日、夫はかかりつけの心療内科へ向かった。
夫「先生、指示された通り、 妻には、子供を川に落としたと告げました。……全く、妙なものですね。子供なんて、はじめから存在していないのに……」
医者「ええ。全く、奇妙なものですね。 ……それで、奥さんの反応はどうでしたか?」
夫「悲しんでいる様子でしたが、私を責めることはありませんでした。じっと悲しみに耐えて、震えながら……うぅ……。もう、あんな妻は見ていられません」
医者「もうしばらくの辛抱です」
夫「こんなことはもう終わりにしたいですが……。本当に、妻の妄想はこれで治るのでしょうか」
医者「断言はできませんが、徐々に回復していくはずです。来週もまた、いらしてください」
<場面転換>
夫が診断室を出てゆくと同時に、 医者は大きくため息をついた。
医者「まったく、厄介な患者だ。彼の奥さんは1年前に交通事故で死亡しているというのに、未だに妄想の中で、一緒に生活を続けている」
カーテンをめくり窓から外を見ると、 夕暮れを過ぎて暗くなり始めていた。
医者「しかし、本当に珍しい症例だ。妄想にしては、ストーリーに一貫性があり、あまりに現実性を帯びている。まるで、本当に奥さんと生活しているようだ。それに、彼の奥さんには足がない……か。なにかの悪い冗談のようだ」
医者は急に寒気を感じ、カーテンを閉めた」