登場人物
- 医師(男):38歳
- 岩井マナ(女):人魚
所要時間(300文字あたり1分として計算)
約29分30秒(8892文字)
台本についての補足説明(ディレクション等)
特にありません。自由に演じてください。
本文
医師M:この街には空襲が二度あった。妻が死んだのは二度目の空襲で、すぐ側には私がいた。爆風で飛ばされてきた鉄片が、彼女の体に突き刺さった。私は自分の服を破り、彼女の体にあてがい、なんとか、出血を止めようとした。… どうにもならなかった。悲痛な表情を浮かべているであろう私を見て、不思議なことに、彼女は静かに微笑んでいた。いや、実際にはそうじゃなかったかもしれない。痛ましい 記憶を、なるべく安らかにするために、私が自分でそう思い込んでいるだけかもしれない
医師:… さ、これで大丈夫。軽い捻挫だから、数日で良くなるでしょう。…ああ、そんな顔しなくても、わかっていますよ。この戦時下で治療費を払える人の方が少ないんですから。さ、次の患者さんが待ってる。お大事にどうぞ
医師M:戦時中だから、医者が足りない。戦時中だから、患者は治療費が払えない。何かがおかしいのかもしれない。しかし、そんなことは考えても仕方がない。そういうものだと受け入れるしかない。受け入れて、やれることを必死にやるだけだ。数日前に妻が死んだばかりだとしても、それは変わらない。私は医者だ。やってきた患者を治療する、それだけでいい
医師:次の方、どうぞ
<SE>扉が開く音
<SE>車椅子が移動する音
マナ:… 足が、イタイ
医師M:私は、目の前の光景が信じられなかった。そこには、車椅子に座った妻の姿があった
マナ:あ、… 足が、イタイ ですが… ?
医師:あ、ああ、失礼。足を怪我されたんですね。どうぞ、もう少し中の方へ来てください
マナ:ハイ
医師:あの、…お名前は
マナ:イワイ、マナ
医師:… 生きていたのか
マナ:ん…? マナは、イキテル
医師M:いや、違う。妻は、…マナは確かに死んだ。私が看取ったんだ。死亡届だって、この引き出しの中にある。そんなはずはないんだ
医師:ああああ、失礼。君が知り合いにあまりにも似ていたもので、取り乱してしまいました。それで、足が痛いんですね? 患部を見せてもらえますか?
マナ:足、イタイ、ホータイ、とりたくない。 クスリ、ホータイ、ください
医師:そういうわけにはいきません。負傷の種類・程度によって対処が変わります。この戦時下で、薬や包帯も貴重品ですから、無闇に渡すこともできません
マナ:足、イタイ、ノニ?
医師:ええ。ホータイを取らせてください
マナ:…カエリマス
医師:医者として、怪我人をそのまま帰すことはできません。どうか、包帯を取らせてください
マナ:ホータイ、とりたくない。キンシされてる
医師:… どうも君は日本語に慣れていないようだ。おそらく、大陸の生まれなのでしょう? あちらの文化は存じ上げないが、大丈夫。医者には守秘義務というものがあります。君がホータイをとったとしても、絶対に秘密にします
マナ:… ヒミツ?
医師:そう、私たち、二人だけの秘密です
マナ:ワカリマシタ
<SE>布が破れる音、布が落ちる音
医師:え… 君は、これは、まるで
マナ:マナ、ニンゲン、ちがいます
医師:そんな、マナは、やはり…… 。君は、その、… いわゆる、人魚、なのですか?
マナ:… ニンギョ? … ヒミツ、まもって
医師:ええ、はい、わかってます。… ああ、これはひどい。化膿してますね。すぐに処置しましょう
<SE>金属のかちゃかちゃ音
マナ:アノ、ア…
医師:多少、痛むでしょうが仕方ありません。我慢なさい
マナ:アリガトウ
医師:… ああ、構いませんよ。 私は医者で、君は患者です。治療するのは当然です。まあ、人魚の患者は初めてですが、患者には変わりないでしょう
医師M:私は夢を見ているのだろうか、それとも、正気を失ったか。妻にそっくりの人魚が患者として現れて、私はそれを治療している。… 下半身から目を背ければ、本当に体の隅々まで、マナと同じだ。これが偶然の一致だろうか
マナ:… そんなにミラレタラ、ハズカシイ
医師:治療中なんだ。我慢なさい。… ところで、君は人間ではないと言ったが、通貨の概念はもっているのかね
マナ:ツウカ… オカネ…
医師:そう。お金だ。私は君を治療している。君は私にお金を支払わなければならない
マナ:オカネ、ない…
医師:そうか、それは困ったな… 。お金は払ってもらわなければ困る
医師M:こんな子供のような相手に、それも、妻と同じ顔の相手に、このような手を使うのは気が引けるが…
医師:そうだ。この病院で働かないかね? 君が秘密を隠したまま、よそで働くのは難しいだろう。私としても、一人では手が回らなくて困っていたんだ
マナ:マナ、ここで、働く
医師:おお、そうか。働いてくれるか
マナ:マナ、ケッコン、する
医師:… は?
マナ:マナ、ケッコン、する。オカネ、ハラウ、ヒツヨウ、ナイ
医師:ケッコン、って、結婚か?
マナ:結婚
医師:誰が結婚… 。私と、君、が?
マナ:ワタシ、ト、キミ、が。結婚スル。オカネ、ハラウ、ヒツヨウ、ナイ
医師M:この子は一体何を言ってる? 結婚? 結婚したら、お金が必要ない? … 夫婦になったら私とこの子の私財が共有財産になるから、 支払いの必要がないと言っているのか? 一応、話の筋は通っているのか… 。言葉遣いは拙いが、妙な知識を持っているな
医師:いいや、治療費の支払いは婚姻前に発生しているから、厳密には夫婦になっても状況は変わらないよ マナ:そう、なの? ザンネン
医師:ふふ… 。そもそもだね、 一回分の治療費くらいの端金のために、結婚なんてするものじゃないよ。 その辺の常識も、ここで働くうちに身に付くだろう
マナ:ジョーシキ… 。ジョーシキ、シッテル
医師:常識は、知ってるようで知らないものだよ。自分では気づけなくて、誰かに気付かされるものなんだ。誰もが、その時になって思うんだ。ああ、今まで自分はなんて常識がなかったんだ、って
医師M:私は、あの時の自分が恥ずかしくてたまらない。あの時、マナがどんな想いでその言葉を発したのか。 私は、理解しようともしなかった。常識がないのは、私の方だ
医師M:それから、彼女と暮らす日々が始まった。人魚である彼女が、人間の暮らしに慣れるまでには、相当の時間が必要だと思っていたが、そんなことはなかった。彼女はまるで、ずっと前からここで暮らしていたかのように振る舞った。家の中を松葉杖を使って自由自在に歩き回り、食事の支度は初日から完璧にこなしたし、洗濯機の使い方を一度だけ教えたら、その後は私の出番はなかった
マナ:イワイ、イワイ
医師:うん、確かに私は岩井だが、 君に苗字を呼び捨てにされるのは、なんだか、落ち着かないな。どうだ。君は診療所の看護助手なわけだから、『先生』、と、呼んでくれないか
マナ:… センセ
医師:うん、そうだ。… 自分で言わせておいてなんだが、先生と呼べ、と強制するのは背徳感があるな。 … まあ、だんだん慣れていくだろう
<SE>二歩だけ歩く
医師:ん? 何かな?
マナ:センセ、… マナ
医師:… ああ、君の呼び方か。悪いが、名前で呼ぶことはできない。偶然なのかなんなのかは知らないが、 君の名前は僕の知り合いと同じでね。こんがらがるから、名前で呼ぶことはできないんだ
マナ:ンー。… マナ、ヨンデ?
医師:悪いね
医師M:夜になると、私たちは、同じ部屋で、別々の布団を敷いて寝た。初めは寝室を分けようとしたが、 彼女がそれを拒んだ。夜が深くなっていくにつれて、 彼女は何かに怯えるようなそぶりを見せる。 何に怯えているのだろうか。海の方角を警戒しているようだから、自分とは別の人魚たちを恐れているのかもしれない。 彼女は、誰に追われているのだろうか。彼女は、誰かに追われるような事をしたんだろうか。私は、まだ、彼女の事を何も知らない
マナ:コワイ、コワイ。センセ、センセ
医師M:彼女がどんなに怯えていても、布団を共にすることはない。彼女は、マナではないからだ
医師:何が怖いのか教えてくれ。 そうでないと、どうしたらいいかわからん
マナ:コワイ、コワイ
医師M:私は黙って、自分の布団に潜り込んだ。目を固く閉じて。耳を塞ぐ。そうしていると、私はいつの間にか眠っていて、 目が覚めると何事もなかったように朝食を準備している彼女がいた。目が合うと、彼女は穏やかに微笑んだ
医師:それにしても、人魚が料理上手とは驚いた。 食文化が人間と近いのかな
マナ:はあ(ため息)、センセって、常識がないのね
医師:え… 。そうじゃないのか
マナ:人魚は料理なんてしないわ。 精々、食べやすいように 魚の骨とりをするぐらいね。私が料理できるのは努力の結果よ。もっと感謝してほしいくらいだわ
医師:そうか。それはすまなかった
マナ:ふふ… 。分かればいいのよ
医師M:一緒に生活を始めて数ヶ月たつと、 マナの言語能力は急速に発達した。今では、私よりも喋りが立つくらいだ。あまりの進歩に、これまでの拙い喋りは、演技だったのではないかと疑うほどだった
マナ:ところで、センセ。 いつになったら結婚してくれるの?
医師:ぶふぅっ !
医師M:私は口に含んでいた味噌汁を噴き出した
医師:急に何を言い出すんだ
マナ:急? 急じゃないわ。初めて会った時にも言ったと 思うけど
医師:あれは… 。君に常識が備わる前の話じゃないか。意味も分からず話してると思ったんだ
マナ:あら、私、日本語は上手になったけど、持ってる知識は当時と大差ないのよ
医師:すると、君は当時から正しい意味で 結婚しようと考えていたということか
マナ:そういうことね
医師:どちらにしても、結婚することはできない
マナ:… 理由を教えて?
医師:まず、人間と人魚が結婚した前例がない
マナ:知らないの? 愛は種族を越えるのよ
医師:次に、君はまだ若すぎる
マナ:私、センセに年齢を話したことあったかしら? きっと驚くわよ
医師:最後に、… あー、とにかく、結婚はできない
マナ:私、最後の理由、知ってるわよ。… センセは、亡くなった奥さんの死亡届をまだ提出してない。つまり、まだ婚姻関係が解消されてないから、新しく結婚することができないってことね
医師:… 引き出しの中を見たのか?
マナ:知らないの? 人魚は超能力が使えるの
医師:今は真面目に話してる
マナ:… 勝手に見たのは、ごめんなさい。でも、私は…
医師:私はもう出発する。今日はもう診療所に来なくていい。自分のやったことをよく考えるんだな
マナ:え… 、でも、今日は
医師:わかったか?
マナ:ええ、… はい
<SE>扉が閉まる音
医師M:私は何を感情的になっているんだ。遅かれ早かれ、彼女には話すつもりだったじゃないか。しかし、本当に、そんな事が許されるのか。迷っているうちにもう一年ほど 経ってし まった。あ、一年…。そうか、彼女と出会って、今日でちょうど一年か。砂糖は手に入らないだろうが、小麦粉と卵ならなんとかなるだろう。今日は早く帰ってホットケーキでも作ってやろう。それから、彼女に伝えよう。私と結婚してほしい、と
医師:ただいまー
<SE>扉が開閉、歩く音
医師:帰ったぞー。… あれ、便所かな
医師M:便所ではなかった。彼女は家の中のどこにもいなかった
<SE>雨が降り始める
医師M:なぜだか、予感があった。彼女がこの家に戻ってくることは、ないだろう。元々、奇跡のようなものだった。たった一年間だったが、この幸せな幻想を抱いて私は残りの生涯を過ごそうと思う
マナ:ただいまー。あ、セン セ、もう帰ってたの? ごめんね、まだ晩御飯の準備できてないから、ちょっと待ってね。
医師:あ、ああ
マナ:あ、そうだ。明日の朝、先生に診てもらいたい人がいるの。だから、早めに診療所で待っててくれない?
医師M :私は了承した。その後、晩ごはんと ホットケーキを食べた 私たちは、早めに床についた。私は夢を見た。夢の中には、一年前に死んだ妻が出てきた。姿形は、彼女と全く同じなのに、私には、その人が妻だと、はっきりとわかった。妻は私に何かを告げた。別れの言葉だったようだ。だんだん薄れゆく 妻の姿の前で、私はただ見ていることしかできなかった。目が覚めると、深夜だった。隣の布団を見ると、彼女の姿がなかった。便所だろうか。寝ぼけまなこを擦りながら、家の中を探すが、どこにもいない。そういえば、明日の朝、診てもらいたい人がいると言っていたな。思い出した後、急に頭が冴えてきた。診てもらいたい人って誰だ? 私の知らない間に、友人でもできたのか? そんなことがあるだろうか。 外出するときは基本的に私と一緒だ。しかも、彼女は長い距離を移動できないから、ごく限られた場所にしか行っていない。仲間の人魚のことだろうか? しかし、彼女は、診てもらいたい、人、と言っていた。それに、昨日の夕方、 彼女はどこに出掛けていた? 彼女が一人で外出するなんて、これまでな かった。私は、急いで診療所に向かった。診療所に向かうと、彼女がいた。手術台の上で、家から持ち出したであろう包丁を 持っていた
マナ:早かったのね。センセ
医師:一体、どういうことなんだ
マナ:センセ… 。 私を、助けてくれ る?
<SE>刃物が刺さる音 三回
医師:ばっ ! … 何してる!
マナ:センセ、よく 聞いて
医師:動くな ! 止血するぞ!
マナ:違うわ、センセ。私の刺したところから下を切除して
医師:さっきから何言ってんだ! そんなことができるか!
マナ:センセならわかるでしょ? もう切除するしかないわ。動かない足なんて、必要ないもの
医師:あああ! なんなんだ! 一体!
マナ:センセ、ごめんなさい。でも、私の言う通りにしてほしいの。私の尾鰭を切除したらすぐ、それを持って、一番近くの海岸へ行って。 そうしたら、波打ち際に尾鰭を置いて、夜が明けるまで待っていて。尾鰭には包帯やらガーゼやらつけたらダメよ。はっきりとそのものの形がわかるようにしてちょうだい。…お願い 医師M:彼女は、そう言い終えると、気を失った。彼女の言う通り、傷口の処置は難しく、なんとか形だけ縫合したところで、使い物にはならないだろう。その他様々なリスク を考慮するならば、切除するのが妥当だ。しかし…。いや、躊躇っている時間はない。私は、人魚の尾鰭を切除し、それを持って海岸へ向かった。
<SE>波の音
医師M:夜の海は、砂浜と海との境が曖昧で、近づいていくと、どこまでも引き寄せられてしまうような恐ろしさがあった。このあたりでいいだろう。くるぶしまで海に浸かったところで、尾鰭を波の下に潜らせた。 それから、十メートルほど後退り、砂浜に座って夜明けを待った。さあ、これで満足か。彼女が何を考えているのか、私にはまるでわ からないが、彼女の言うことに従うべきだと感じた。夜明けまではまだ時間がある。私はこれからどうするべき なのだろうか。… 妻の死亡届は提出していない。書類上、妻はまだ生きていることになっている。だから、彼女が、… 彼女が私と結婚するとして、彼女が、妻に成り代わっても誰からも咎められることはないだろう。だが、そんなことは… 、果たして、許されるのだろうか。私の中で、決意が固まらないうちに夜が明ける
医師M:夜の海の漆黒が暴かれたそこには…。海岸線に沿って、無数の人魚がそこに並んでいた。私は一瞬たじろいだが、すぐにある事に気づいた。彼らは、私など、全くこれっぽっちも気に留めていない様子だった。彼らは異様なほど一点だけを見つめていた。そこにあるのは彼女の、人魚の尾鰭だ。
<SE>大量に水が跳ねる音
彼らは、一斉に、尾鰭に飛びついた。信じられない。彼らは、尾鰭を… 。尾鰭を食っている。無表情に、しかし激しい その動きには人間性などはかけらも感じなかった。私は原始的な恐怖を感じ、その場から逃げ出した。
マナ:おかえり。センセ
医師:君は…もう平気なのか?
マナ:うん。センセが施術してくれたもの
医師:そうか、よかった。それで、…昨夜の君の一連の行動についてだが…
マナ:うん
医師:私には何が何だか…
マナ:ふふん。セン セはジョーシキがないからなあ。まあ、その辺のジョーシキも私と生活していったらわかるんじゃない?
医師:そうか。… そう言うものかもしれないな
医師M:彼女は、自分の体が欠損したばかりだと言うのに平然としている。ショックはないのだろうか。… いや、こんな風に考えるのも、私にジョーシキがないという事なのだろうか
マナ:あ〜、そういえば、困ったなあ
医師:どうした?
マナ:私、センセに手術代払えないよ。救急外来でしょ? 無保険でしょ? おまけに入院費までかかりそうなんだもの
医師:いや、そんなの…。ああ…。 そうだな。それは困る
マナ:どうしたらいいと思う? センセ?
医師:そうだな。…結婚しよう
マナ :… ええ。喜んで