登場人物
- 語り(不問):ナレーター
- 娘(女):手紙の文面のみ
所要時間(300文字あたり1分として計算)
約6分30秒(1937文字)
台本についての補足説明(ディレクション等)
特にありません。自由に演じてください。
本文
語り: 病床の画家があった。薄暗い病院のベッドで横たわる彼は孤独であった。誰か人の目があったならば、彼は長患いの末に弱りきってしまったのだと見られただろう。しかし、その外見からは意外に思われるが、彼が医者から診断された病は軽いものであった。彼はじっと目を瞑っている。眠っているのではない。 ただ、何も見たいものがないから目を瞑っているのだ。実のところ、彼について、医者の診断は正確ではなかった。彼は体の病のみならず、心の病も患っていたのだ。医者が見抜けなかった方の病は重く、彼はいつも泥沼の底にいる気分だった。彼は生来の画家で、ずっと絵を描いて暮らしていた。家族があり、妻と娘と共に暮らしていたが、妻は若くして病気で死に、娘は絵を描いてばかりいる彼に愛想を尽かしてどこかへ行ってしまった。彼の絵は世間からあまり評価されていなかったが、長年に渡り描き続けた成果か、じわじわと人気を集めていった。 しかし、その頃には絵筆を持つ手は皺だらけとなり、老人といえる年齢になっていた。 体はすっかり弱ってしまい、病に倒れて入院を余儀なくされたというわけだ。もはや絵を描く気力も尽き、いつ死んでも構わないといった心情であった。そんなある日、彼に手紙が届いた。その手紙は生き別れた彼の娘から送られたものだった。
娘(手紙文面): 拝啓、画伯様へ あなたが病気を患い、入院していることを知りました。でも、私はあなたに会いに行くことはしません。 私はあなたを恨んでいます。私の知る限り、あなたはずっと画家でし た。お母さんの夫ではなく、私のお父さんではなく、あなたはずっと画家でし た。お母さんより私より、何よりも、絵を描くことを大事にしていましたね。あなたは気にかけたことがあるのでしょうか? 病気がちなお母さんが、家計を助けるために朝早くから夜遅くまで働いていたことを。お母さんの手があかぎれの傷だらけだったことを。ボロボロの服を着ていたせいで私がいじめられていたことを。お母さんがいない寂しさでベッドで泣いていた私のことを。それ でも、お母さんは、あなたのことを悪く言うことはありませんでし た。 私はそのことが不思議で、不満にも思っていました。あなたはなぜ、お母さんが倒れた時も、絵を描くことを辞めなかったのでしょうか。あなたが絵を描くことでお母さんを苦しめていると思えなかったのでしょうか。お母さんは決して、あなたに絵を描くことを辞めろとは言いませんでした。でも、心のうちではどう思っていたのか。今となっては知る由もないことです。先日、あなたのアトリエに行きました。復讐のためです。あなたが一生を懸けて描き続けた絵を、お母さんを殺した絵を燃やそうとしたのです。でも、私は絵を燃やすことはできませんでした。私はあなたの絵を見たことがなかったから知らなかった。あなたの絵は、全てお母さんを描いたものだったのですね。病気を患っていたお母さんを、生きているうちに絵に残したかったのですね。でも、やっぱり私は、あなたを許すことはできません。あなたが絵を描き続けることをお母さんが望んでいたとしても、お母さんの絵を描くことが、あなたなりの愛情表現だったとしても、 お母さんを早くに死なせてしまったのは、あなたが画家であることを辞めなかったからです。だから、せめて、絵を描き続けてください。ずっと、死ぬまでお母さんの絵を描き続けて。それ が死んだお母さんにしてあげられる唯一のことだと 思うから。私のお願い、聞いてくれるよね? お父さん。***
語り: 手紙を読み終えた彼は、病身を強いて、娘の元へ行こうと奮い立った。手紙の送り元を探したが、その記載はどこにもなかった。手紙を届けた看護師に聞いてみたが、彼女はなぜか教えるのを渋った。やっと聞き出せた事実に、彼は愕然とした。娘は数日前に死んでしまっていた。亡くなった妻と同じ病気だった。手紙は、彼女の遺書だったのだ。退院後、彼は、妻と娘が眠る墓の近くに、アトリエを建てた。毎日、絵を描き、毎日、墓の前に行っては、絵をかかげる。彼の絵には、妻と娘と、それ から、彼自身が描かれていた。絵の中の家族は、つつましやかに、そして、幸せに暮らしているようだった。天国にいる娘は喜んでくれているのだろうか。彼はどうしても自信を持つことができず、何度も何度も描き直す。来る日も来る日も、幸せな家族の姿を描いては、墓の前でかかげ続ける。