サンマが焼けるまで

登場人物

  • 老人(男):男性の老人

所要時間(300文字あたり1分として計算)

約8分0秒(2447文字)

台本についての補足説明(ディレクション等)

特にありません。自由に演じてください。

本文


老人:妻の早苗が死んでから、もう半年が経つ。 日本人の平均寿命からすれば早めの死なのだろうが、若くし て亡くなった、という表現が 適切ではない年齢だった。早苗に頼まれて自販機でパックの牛乳を買い、病室へ 戻ってみると、早苗の顔には白い布がかけられ、傍らには医師が寄り添っていた。 あまりにも唐突で、しかも間が抜けた最期だ。 俺が牛乳一つ買って戻ってくるまでにどれだけ時間がかかったと いうのか。 間抜けついでに言うならば、俺が買ってきた牛乳は「特濃4.5 北海道牛乳」だった。 早苗に頼まれたのは「低脂肪牛乳」なのに…… 。 俺が妻の亡骸にかけた最初の言葉は「ごめん」だった。 正確にいえば「ごめん(買ってくる牛乳まちがえて)」だ。 今になって思い返してみると無性に腹が立つ。 死に際なんてのは死ぬ本人が一番わかってそうなもんだ。 それなのになんでそのタイミン グで「牛乳買ってきて。低脂肪のやつね」なんてセリフがでてくるんだ。死ぬところを見られたくなかったってことか? ネコじゃあるまいし。 大体、死ぬ間際だってわかってるなら低脂肪じゃなくていいだろ。 カロリーとか気にしてんじゃないよ! まったく… 。

あんまり間が抜けた最期だったから、早苗が死んでからの数日間は悲しむのも忘れて 煩雑な諸事に明け暮れた。実際、やることは多かったのだ。 葬式の手配、家族・親戚・知人への 連絡、坊さんへのお布施、弔事の台本作成、 身辺整理、引っ越し、諸々…… 。 人が死ぬとこんなにもやることが多いのか、と驚いたものだ。 おかげで悲しみを忙しさで紛らわすことができたのかもしれないが…。

そんなことを思いながらアパートの一室から窓をみると、外は夕焼けだった。俺は夕焼けを見ながら土手を散歩するのが好きだから、昼過ぎになると読書をしながら夕方時分になるのを待つのが常だ。しかし、読書に夢中になって、気づいてみると外が真っ暗だ、というのも常だった。そんな俺の様子を見て、早苗はにやにや笑いを浮かべながら「世界中の人間があんたみたいな間抜けだったら、きっと平和な世の中になるんだろうねえ」と言った。流しっぱなしのTV からは、またどこかの国で戦争が始まると伝えられていた。

ある日、いつもの土手を散歩していると、ちょうど早苗と同年齢程度と思われる女性とすれ違う。このあたりは外灯が少ないから、夕暮れになるとすれちがう人の顔もあまりはっきりとはしない。夕暮れの事を「逢魔時」とはよく 言ったものだ。顔がわからなければ、今すれちがった女性が悪魔だったとしても気がつかないわけだ。 もっとも、その言い分だとすれちがったのは死んだ早苗だったかもしれんがな。そう思うと、急に眼に水分がたまってきてしまった。 出かける前に低脂肪乳を飲み過ぎてしまったようだ。コップに注いだ牛乳を飲み干してから思ったが、やはり牛乳は濃厚な方が旨いな。視界が滲んでしまって前がよく見えないから、今日はもう帰ろう。次の日も、その次の日も、あくる日も俺は夕方になると土手に向かった。本に夢中になって時間が過ぎてしまう、ということもなかった。早苗が死んでからどうも読書にも集中しきれないようだった。顔が見えない人々と何度もすれちがう。人々のかぶった黒い仮面の下に早苗の顔を描く。俺の記憶に残っている早苗の表情を描く。小遣いの無駄遣いを怒る早苗、道路に転がるネコの死体を悲しむ早苗、名も知らぬ政治家の横領を糾弾する早苗、映画館で眠気に誘われるも必死に抵抗する早苗、近所で生まれた子供をあやして楽しそうな早苗、その後に少し寂しそうな早苗、仮面の下にどんな表情を描こうとも、やはりそれは早苗ではなかった。当たり前だ、早苗はもう死んでいる。これは単なるお遊びだ。老人の暇つぶしだ。ボケ防止だ。…それなのに眼に水分がたまってしまうのはなぜだろう。

その日は、なんだか眠れなかった。 これからどうすればいいのだ。なにをしても気がはいらない。やる気がでない。 それもこれも早苗が死んでしまうからわるいのだ。 俺がこんなに思い悩んでいるというのにあいつはのんきに死んでやがる。いい気なもんだ。まったく… 。夕方になるとようやく眠気がやってきたようだった。今日の散歩はやめておこう。なんだか虚しくなってしまったからな。それになにより眠い… 。

「ねえ…… 」

窓の外の夕焼けをみながらまどろんでいると、早苗の声が聞こえたような気がした。 はっとして眼を見開き、耳を澄ましてみるが、やはり何も聞こえはしなかった。いつもの静かな夕焼けだ。少しだけ時間が過ぎるとすぐにまた眠気がやってくる。

「ねえ…… 」

また聞こえた。あわてて眼を開くと周囲を見回す。誰もいない。幻聴だろうか。幻聴だろうな。でも、まあ、幻聴でもいいな。腰を上げて、冷蔵庫から、昼間に買ってきたサンマを取り出す。魚焼きグリルの使い方は早苗に教えてもらった。俺ができる唯一の料理だ。グリルにサンマを置いて、ダイ ヤルを回す。焼き上がるまで、一休みだ。畳の上に腰を下ろすと、再び、まどろみが訪れた。予感があった。早苗が近くにいるような感覚がしていた。このまま意識が薄れていけば、きっと早苗に会えるんじゃないかな。早苗に会えた ら、何を話そうか。まずは、牛乳の件を謝らないとな。それから、死に目に会えなかったことも謝る。…なんだか、謝ってばかりで冴えないな。他に話すことはないものか。どうにもそわそわ して落ち着かない。気の利いた話題を考えるから、整理する時間をくれないか。ほんの少しの時間でいいんだ。そうだな… 。 サンマが焼けるまで